ゴーストバスターズを観に行こうと思っていたのだが、最寄りの映画館ではすでに1日1回の上映のみになっており、それも午前中ということで鑑賞は叶わない。
そんな中、観られそうな映画で唯一観てみたかったのがドライブ・マイ・カーである。
ただ、村上春樹と映画の相性はとても悪く、自分が知る限り村上春樹原作の映画は退屈なものばかりである。
なので、この作品もあまり期待せずに観に行く。
自分は10代・20代と村上春樹に多大な影響を受けた。
今となっては何でそんなことが可能だと思ったのかわからないのだけれど、「僕」みたいに生きようと思っていた。
30を過ぎたあたりから村上春樹の感性と次第に合わなくなり、今は新作を読むことは無くなったのだけど、彼の初期の短編小説はいまだに読み返すことがある。
ドライブ・マイ・カーに関しては発売当初に原作を読んでいるはずなのだが、ちょうど心が離れていた時期の作品なので内容を全く覚えていない。
なので原作との差異はよくわからない。
しかしながら、だいぶ膨らませたんだな、ということはわかる。
村上春樹作品の映画化で1番懸念していたのが、「感情を抑制した演技をさせてそれっぽい空気感を出そうとする」であるが、この映画もやはりそれをやっている。
これが逆に映画の作意を感じることに繋がり、没入できず、自分は白けてしまう。
個々を見ればキャスティングは非常に良いと思うのだが、キャスト自体が映画に溶け込んでいないように見える。
登場人物同士の関わり、その結果としてのイニシエーションの話ではあると思うのだが、そこの描き方が希薄で物語としては単調に感じる。
物語の構成もそうで、基本的に誰かの1人語りで全体が進んでいくので、途中まで「演劇の部分をそっくり抜いてラジオドラマでやればいいんじゃねぇか」とすら思ってしまう。
この話は「家福音の神秘性」が話の推進剤であるべきだと思うのだが、「演劇」という別の柱を作ったために話がぼやけてしまっている。
いなくなった家福音と向き合い、家族の喪失を乗り越えて悠介が再起していくという話であれば、ドライバーみさきの家福音に関する言及で十分なはずで、演劇の件は必要ないように思える。
高槻という男の顛末も、話の都合上な展開な気がするし、家福音の神秘性が損なわれる感じがして、少し白ける。
最後の最後に演劇のシーンで目が離せなくなる素晴らしい場面があるのだが、それを除けばやはり「演劇いる?」と思ってしまう。
映画を見ているとカンヌとかで話題になる理由はわかる。
でもそこについて何か言うのは違う気がするので、言わないでおく。