毎年大晦日は弟と映画を観にいっている。
今回は弟から「ゴジラ -1.0」という提案を受けたのだが、自分の信念として山崎貴に1銭のお金も渡したくないので、かなり渋った。
ただ評判が良いのも知っているので、途中まではイヤイヤ観る気にはなっていたのだが、映画館に向かう途中にどうしても耐えられなくなり、自分が鑑賞代を奢るという条件で、別の映画を鑑賞することにする。
実際は結構ギスギスした感じで、兄弟の仲を裂こうとした山崎貴を俺は許さない。
そんなわけで、上映時間的にちょうどいいウィッシュを観に行くことになる。
ゴジラ -1.0とは逆にウィッシュは良くない評判が出ているのを知っていて、こういう経緯でなければ観なかった作品かもしれない。
ただ前に実写版のリトル・マーメイドを観たことがあり、それが世間の評判と違って、自分は結構楽しめたので、ウィッシュに関してもそこまで悲観的な感じではない。
感想を先に言うと、弟には不評だったが、自分はそこまで悪いとは感じなかった。
最近のディズニー映画に関する世間の評価と自分の評価とのズレはなんなんだろう、と思ったが、おそらく自分が「ディズニーを通過して成長してきた人間ではない」と言うところが大きいんだと思う。
記憶にあるかぎり、ディズニー作品を劇場で観たのは実写版リトル・マーメイドが初めてだし、レンタルビデオやTV放映とかでもまともに見たことがない。
かつてのディズニーのトーンを知らないから楽しめていて、ディズニーに親しんでいる人にはダメなんだろうなという気がする。
願いが叶う魔法の王国に暮らす少女アーシャの願いは、100歳になる祖父の願いが叶うこと。だが、すべての“願い”は魔法を操る王様に支配されているという衝撃の真実を彼女は知ってしまう。みんなの願いを取り戻したいという、ひたむきな思いに応えたのは、“願い星”のスター。空から舞い降りたスターと、相棒である子ヤギのバレンティノと共に、アーシャは立ち上がる。「願いが、私を強くする」──願い星に選ばれた少女アーシャが、王国に巻き起こす奇跡とは…?
ウィッシュ(WISH)|映画|ディズニー公式
という話である。
浅薄な自分のディズニー感でいえば、割と王道な話なのかなと思う。
自分がこの作品に感心したのは王様・マグニフィコ王のキャラクターである。
というか、マグニフィコ王が良い、という部分だけがこの作品の救いだった。
幼い頃に故郷と両親を亡くし、その経験から魔法を勉強して人々が平和に暮らせる王国を建設する、という立身出世の人である。
彼は魔法で国民の願いを集め、月に1度国民1人の願いを叶える儀式を行なっている。
そこにたまたま願い星のスターの協力を得られることになった主人公のアーシャがスターの力でさまざまな奇跡を国民に見せる。
この国の在り方を根本から揺るがすものの存在、そして自分以外の魔法使いの存在に焦るマグニフィコ王は禁忌の力に手を染めていく。
マグニフィコ王からみるとウィッシュはこういう話になる。
マグニフィコ王の正義感や信念に関しては、終始一貫しており、それがアーシャの行動によって裏返ってしまったという印象である。
もっというなら、マグニフィコ王をヴィランにしたのはアーシャである。
このキャラクターづけは非常に良い。
自分の見解を言えば、祖父の願いが叶わないという極私的な理由で王様に不満を持ち、国の秩序を乱そうとするアーシャの方に問題があるように見える。
祖父の願いが叶わない理由は、「若者を扇動し、国家転覆につながる恐れがある」という理由で、平和を維持しようとする統治者の判断としては理解できなくもない。
平和や繁栄を享受しようとすれば、ある程度の制限は必ずあるはずで、それが「願いや記憶を捧げる」なのは妥当なのか、というのはあるだろう。
「願いを叶える自由」を欲するアーシャの想いは理解できる。
しかしその想いの発端が「祖父の願いが叶わないから」というのはあまりに幼稚すぎる。
願いを叶える自由を手にした段階で責任が発生するはずで、アーシャはそこになんの覚悟もないまま自由だけを享受しようとしている、というふうに自分には見える。
逆を言えば、マグニフィコ王が納めるロサス王国は、ある程度の自由を奪うことで国の平穏や繁栄を実現していた。
これはディストピア物の典型の設定だと思うが、ディストピア物においては、個人の思いではなく、その社会の不満・弊害を描き、社会を裏返すためのそれ相応の理由づけをしなければいけないと思う。
この作品における不満は「祖父の願いが叶わない」だの、「自分がつまらなくなった」だの、内向きの理由ばかりで、そんなことで国民全体の生活を揺るがせようとするのはどう考えても思慮が足りないと思う。
あと、他作品の役者の声優仕事と一線を画す、非常に堂に入った演技をしていた福山雅治が非常に良かった。